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月並空間

月並空間コラムCOLUMN

2019年6月16日

いのちの相:ビオスとゾーエー

いのちの相:ビオスとゾーエー

訳あって世話をしていた、畑の近くの家の猫が軽トラの下で冷たくなっていて、亡骸を火葬場に運んだのですが、別れ際に私の口から出てきた言葉は「元気でね、またね」というもの。死んでしまっているのに、なにが「元気でね」なのかとか、「またね」なんて、いったいどこで再会するつもりなのかとか、我ながらおかしく思いましたが、それが私の自然な気持ちでした。

終わらないものがある、ってことなのかと思います。

翌日、深い草むらで草刈りをしていて、たぬきの亡骸を二体見つけました。ひとつは骨になりかけているもの、もうひとつはもう少し新しいもの。穴を掘るのも難しい場所だったので、刈った草を掛けました。他の人が踏まないように、訳ありな感じで薄めに。

立て続けに三つの亡骸に会った私は、不思議と安らいだような気持ちになりました。そこにあったのは、寒いとか、ひもじいとか、痛いとかいうことから解放された姿だったので。

終わらないものもあるけど、終わるものもある、ってことなのかと思います。

古代ギリシア人はいのちを表す言葉を複数持っていて、個々の有限ないのちはビオス、個を超えて連続する無限の命はゾーエー、というように使い分けていました。数珠に例えるなら、ビオスは珠、ゾーエーはそれを貫いてつなげている糸。

終わるものと終わらないもの。終わるものは、終わらないものが生み出した発明なのか。終わらないものは、終わるものが見る夢なのか。そんなことを考えているのは終わる私なのか、終わらない私なのか。

調べてみると、さすがギリシア人、「終わる私」とか「終わらない私」とか思考する人格的ないのちには「プシュケー」という言葉を与えていました。紀元前に人間はかなりの高みに達していたんだなと思います。

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